夜霧とは?/ ディック
[ 875] 夜霧の古城
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少し前になるが、休みを利用して、三菱重工の名古屋航空宇宙システム製作所に行ってきた。目的は、その史料館にあるロケット戦闘機「秋水」の写真を撮ることである。それは柏で行うイベントのためで、柏に関する陸軍の施設や遺物の写真を集めようと、かつて森兵男のHPに協力して収集したものも含めて、良いものを整理しようとしたときに、肝心の「秋水」実物の写真がないことに気付いたことによる。 名古屋航空宇宙システム製作所と、名古屋の名前が付いているが、正確な住所は愛知県西春日井郡豊山町であるから、自分の住んでいる郡部と同様に田舎かもしれない。地図をみると、豊山町には電車の駅がない。近くに名古屋空港があるので、その交通機関を利用していくと、比較的楽に行ける。 朝、会社の駐車場に車を置いて、JR武豊線に乗って名古屋に出た。名古屋まで出て、空港へのバスが発着するミッドランドスクエア前まで出るときに、滅多に名古屋に出ない小生、そのスクエアなるものがどこにあるのかが、まず分からなかった。大体、駅ビルの高島屋にも数えるくらいしか入ったことがない。どうせなら、大名古屋ビルヂング前とか、松坂屋前としてくれればすんなり行けたであろう。だが、もはやロートルとなり、新しい建物のなまえを言われても、まったくチンプンカンプンな小生、松坂屋の前でうろうろして、なんて名古屋も分かりにくくなったのかと思った次第。 結局、よく分からず、路線バスのバス停で時刻表をみると、近くまで行くバスがあった。そのバスで近くまで行って、後はタクシーで行った。ところが、タクシーですぐに着くかと思いきや、結構遠いのである。だんだん、田舎になってきて、半田近辺とたいして変わらない風景となってきた。訪問先には昼から行くように予約していたので、豊山町で食事をすることにしたが、名古屋にいるうちに食事をしておくべきだったかもしれない。 名古屋空港のそばといっても、食事ができる場所は「伊予」という名前の喫茶店くらいしかない。タクシーでその喫茶店まで送ってもらって、食事をしてから、三菱重工に行った。 さすがに飛行機を作っている工場だけに、入門の際にはカメラ、カメラ付き携帯、パソコンの類は、守衛所にあずけていくようだ。しかし、小生は工場に入るわけではなく、史料館に来ただけなので、カメラを持ったままであった。 史料館にはいると、職員の人がいたが、どうも休憩時間が続いているようで、テレビを見ている。小生も13時と予約していたので、その史料館の展示をぶらぶらみているだけで、時間を潰した。13時になると休んでいた職員は帰り、一人だけ残った職員の人が案内してくれるのかなと思い、声をかけると、史料室に聞いてくださいとのこと。 みれば史料室があり、その室長さんに写真撮影と柏での展示の許可をもらって、数枚写真を撮った。室長さんは、柏では秋水の研究者がいるでしょうと名前もあげていたが、失念した。多分、図書館でみた秋水地下燃料格納庫の関係の本を書いた人のことだろうと思う。史料館は、なにかの倉庫に使われていたような建物で、零戦と秋水の二機が実機で、あとは機銃とかプロペラといったものや、飛行機の模型がたくさんあった。秋水は、ここに完全な形であるが、五機しか生産されなかったらしい。 秋水はもともと、刀の名前だそうだ。鋭い切れ味の刀のように、B29のような米軍の爆撃機をばったばったと落とそうという願いが込められていたのであろう。ロケット戦闘機としては日本初であり、世界でも秋水がモデルとしたドイツのメッサーシュミットがあったくらいであった。 ずんぐりむっくりの形状から小さいもののように思えるが、翼を広げた全長が10m近くある。これは一人乗りで、写真のようにタイヤを履いているが、離陸した後、重みのあるタイヤは落としてしまい、1万メートルくらいまで上昇、何回か降下と上昇を繰り返したあと、最後は滑空した帰り、胴体の下にあるソリで着地するというから、舗装した場所には下りられず、また着地するのは名人芸を要したという。 もちろん、三菱重工の史料館には秋水しかないわけではない。零戦があった。今はゼロ戦というが、当時の海軍ではあくまで「レイセン」である。この零戦は、多分人気があるのだろう。サイズ的には秋水より少し大きいようであるが、たいして変わらないように見えた。 そして、三菱重工を後にした小生、どうやって帰ろうかと思ったが、タクシーを呼ぶまでもなく、役場の前に例の名古屋行きのバスのバス停があった。バスにスチュワーデスさんが一人乗っていたが、中部国際空港に行くようであった。名古屋空港と中部国際空港では1時間くらい移動にかかりそうである。 その後、柏での講演会は、展示も含めて無事に終わった。しかし、大きな問題が持ち上がりつつあることを、そのときには分かっていなかった。 注)当ブログで使用した写真はすべて筆者mori-chanが撮影したものですが、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会や小生の親戚森たけ男のHP(千葉県の戦争遺跡)で出てきた場合でも、それは筆者が許可したものであって、著作権侵害にはあたりません。 今まで、桶狭間合戦において、尾張攻略をめざす今川義元が大軍を率いてきたのが、逆に織田信長によって討たれ、今川方の先鋒であった松平元康、後の徳川家康が合戦の前に兵糧を運び入れると同時に大高城に入ったものの、今川軍の敗戦の報に接して、大高城を脱出、岡崎城に戻って今川氏の支配から脱しようとするところまで述べてきた。 さる4月29日、豊明市の曹源寺にて梶野渡氏の講演があることを、尾張中山氏御子孫のS氏から聞き、さっそく行ってきたのであるが、いかにして2千の兵力の織田勢は10倍もの大軍を擁する今川勢を破ったか、その軍勢の構成や織田信長の実家である織田弾正忠家と一族の関連、織田信長の軍人の育て方、大高を目指す今川本陣の動きをキャッチした情報戦、曹源寺住職であった快翁龍喜和尚と中山氏、桶狭間合戦との関わりなど、分かりやすく興味深い話が多かった。寺の本堂いっぱいにあふれた聴衆は2百名を大きく越え、3百名くらいはいたようで、280部用意した資料がまったく残らなかったらしい。 その講演後、S氏一行と梶野渡氏、曹源寺和尚と庫裏の座敷で少し雑談をした。ちなみに曹源寺自体は大脇村がもともと知多郡であったため、知多八十八ヶ所の一番札所になっているが、今の曹洞宗の地区分けでは名古屋とその周辺の地区に属し、曹源寺和尚はブロック長であるとのこと、道理で大勢を前にした話の仕方もうまいと思ったが、それはともかく。やはり桶狭間合戦での水野氏の動きがどうにも分からない、単に合戦が終わるのを水野氏は待っていたようにも思われるし、岡部元信が桶狭間合戦後籠城していた鳴海城から引き上げる途中に刈谷城を襲撃して水野信近を討っているが、なぜ籠城で疲れ果てている兵で襲ったのか(最初から攻めるつもりなら、今川の大部隊で桶狭間に行く途中でも攻め落とせば良いのではないか)というような話をした。 この点については、以前当ブログ(「徳川家康と知多半島(その29:桶狭間合戦から今川氏からの自立まで)」)でも、「桶狭間の合戦で動向が分からないのが、水野信元である。桶狭間合戦に先立つ、村木砦をめぐる戦い、石ヶ瀬合戦においても、松平を含む今川勢は、織田方となっていた緒川水野氏と戦ったのであるが、当主水野信元の去就がはっきりしない。特に、村木砦に砦を築くようなことが今川勢に出来たとするなら、敵地に普請をしたことになり、刈谷、緒川の水野氏はそれを傍観していたのかということになる。(略) 天文23年(1554)の村木砦の戦いは、水野信元が日和見をするなかで、織田信長が緒川水野氏の流れであるが布土城主になって知多における織田直系であった水野忠分を助ける形で展開していたとみるべきで、その後の石ヶ瀬合戦や桶狭間合戦に水野信元が積極的に関与していない事情があったと思われる。すなわち、明確に今川方に寝返っていたわけではないが、水野信元は織田にも今川にも通じていたように思われる。 確かに、水野信元の弟である刈谷城の水野藤九郎信近や主だった者は、鳴海城を開城し、駿河に帰る途中の岡部元信により、はかりごとをもって討ち取られ、城内に放火された。それは、岡部元信が、水野信元の立場をよく理解していなかったことによる、偶発事象かもしれない。もし、本当に水野信元が今川勢にとって脅威なら、桶狭間に行き着く前に刈谷を襲っていたか、すくなくとも別働隊を作ってでも攻撃を加えていたであろう。」と述べている。 「夏中可令進発候条、其以前尾州境取出之儀、申付人数差遣候、然者其表之事、弥馳走可為祝着候、尚朝比奈備中守可申候、恐々謹言 「夏中、進発せしむべく候条、それ以前尾州境取出の儀、申し付けの人数差し遣わし候、然らばその表の事、いよいよ馳走祝着たるべく候、なお朝比奈備中守申すべく候、恐々謹言 これが永禄3年の文書であれば、水野十郎左衛門尉に尾張における今川方の前線にたってくれるように要請しているのであり、桶狭間前夜という時期に水野氏に今川方について働いてくれと言っているのである。 この十郎左衛門尉は、その名前の署名が入った最も新しい文書(東浦町誌にあるが、もとは大御堂寺文書)では、元亀3年(1572)のものがある。しかし、これは後の十郎左衛門尉であり、前述の十郎左衛門尉の息子か跡継ぎということになる。 「野間大御堂寺従前代雖為守護不入、猶以御理之儀候条、一円令免許上者、諸役等寺中之竹木夫以下此外於向後も申事有間敷者也仍状如件 「野間大御堂寺、前代より守護不入たりといえども、猶もって御理之儀候之条、一円免許せしむる上は、諸役等寺中の竹、木、夫丸以下、このほか、猶向後も申す事あるまじきもの也。よって状くだんの如し。 では、この水野十郎左衛門尉とは誰であろうか。小生、それが分からず、ずっと胸の奥に引っかかった感じであった。水野十郎左衛門というと、旗本奴で幡随院長兵衛と争った子孫のほうが有名であるが。 この水野十郎左衛門尉は、天文13年(1544)閏11月には織田信秀と書状のやり取りをしているし、斎藤道三とも交信しているのである。すなわち、戸田氏系水野氏のような水野氏の傍系であるとは考えられない。また天文13年(1544)閏11月の時点で存命であり、桶狭間合戦時も生きており、息子が元亀3年(1572)10月の時点で存命という水野家主流の人物ということになる。尾張、駿河、美濃の代表人物とも交信できる主流の水野氏というと、緒川・刈谷水野氏、大高水野氏、常滑水野氏以外ではない。しかしながら、大高水野氏なら、宛名にその代々が用いたらしい大膳亮という名前が用いられたであろうし、永禄3年の桶狭間合戦時には、その当主大膳亮忠守は大高城を追われて、刈谷に閑居していたのであるから、今川義元がわざわざ書状を送るはずがない。 もちろん緒川水野でも、天文12年(1543)になくなった水野忠政以前の人では時代があわない。残るは、緒川・刈谷水野氏の数人か常滑水野氏ということになるが、大御堂寺周辺の支配権は永禄初年に常滑水野氏から緒川・刈谷水野氏に移っており、元亀年間に大御堂寺周辺を支配していたのは常滑水野氏ではなく、緒川・刈谷水野氏である。 最後の文書にある「元茂」とは、水野信元の養子である通常「信政」とある人物である。その十郎左衛門尉が水野信政であれば、その先代とは、他ならぬ水野信元その人である。つまり、水野十郎左衛門尉は、水野信元であったことになる。この十郎左衛門尉という通名は、緒川水野氏の祖ともいうべき水野貞守の通称が水野九郎次郎十郎左衛門蔵人というのに端を発しているかもしれない。十郎左衛門尉というのは、水野家主流の名乗りであり、前出の旗本奴の水野十郎左衛門もその系統をひいているから、そう名乗ったのである。また水野信元の子に、松平信定の娘を母とする十郎三郎というのがいるが、その名前は十郎という父の子の三郎という意味であるから、信元が十郎ということになる。 (1)水野氏は織田方であることを貫いたが、相手が余りに自分の領土に近い場所に迫ってきたため、領内でおとなしくしていたか、合戦にも出たが働きが目立たず、歴史に残らなかった (2)実は、水野氏は密かに織田方を裏切り、今川方についていたが、正史ではそう書かれずに今日にいたり、真相が分からなくなった。 上記のうち、(5)はありえない。もし途中から今川方になったら、桶狭間合戦後に岡部元信が刈谷城を攻めることが発生しえない。また、(2)は今川義元の書状が、裏切りの根拠となりえるが、実際に今川方について織田勢と戦ったのなら、織田にとっては大いなる背反であり、何か記録が残ると思われる。(4)も同じで、最初今川軍に水野がいたなら、人々の印象に残るだろうから、何か記録が出てきてもおかしくない。 残るは、(1)か(3)であるが、もし(1)で単純に織田方についていて動きが積極的でなくても、相手のある話で、もしそうなら今川勢が行きがけの駄賃とばかりに刈谷城を攻めたのではないかと思う。もっとも、桶狭間合戦の前に既に刈谷城が今川方の手に落ちていたら、話は別である。 残るは(3)であるが、本当は(3)でもない。今川勢が刈谷城を攻めなかったのは、やはり水野信元と今川勢の間で何らかの約束が出来ていたからであろう。それは義元の書状そのままに尾張境で前線にたつということかもしれない。しかし、その約束に関わらず、水野勢は動かなかった。つまり、今川方との約束を反故にして、水野勢は終始織田方のまま、積極的には戦おうとしていなかったと思う。つまり、「洞ヶ峠」を決め込んだのではなく、織田方のまま、今川に加担するフリをしたのである。あるいは、桶狭間の敗戦で敗走する今川勢に追い討ちをかけるようなことはしたかもしれない。そして、桶狭間合戦後は何事もなかったように、織田陣営にあったに違いない。 だから、合戦後に約束を違えた水野氏に対して、岡部元信が謀略をもって水野信近を討ち、刈谷城に放火する行為に出たのではないか。 これに関して、大高城を取り巻く砦のうち、鷲津、丸根という有名な砦以外に、大高城のすぐ近くの向山砦、あるいは氷上山砦(氷上姉子神社という熱田神宮の摂社がある)、正光寺砦という三つの砦があるが、千秋氏が守っていた氷上山砦以外の何れかを水野氏が守っていたが、勝手に撤退してしまい、それが元で氷上山ともう一つの砦も引かざるを得なくなった。それで、織田信長は大高城周辺の砦の守将と元守将に責任をとらせ、鷲津、丸根を見捨てるとともに、他の砦の守将であった千秋、佐々に敵軍の先鋒に突っ込むように仕向けたというように、まことしやかに書いている人がいる。 もともと大高水野氏の居城だった大高城であるから、土地に精通した水野氏が砦を守っていてもいいのだが、向山砦、氷上山砦、正光寺砦はそれほど大勢の軍勢をおける場所ではなく、桶狭間合戦時には兵をおいても、孤立するような位置関係にあった。特に氷上山は、「お氷上さん」と地元の人から言われる氷上姉子神社のある小山で、周囲は平地、大高城とも少し離れている。 小生もその各砦跡と思しき場所を見て歩いたが、春江院の脇にあり、大高城とは尾根続きの向山砦は切岸と簡単な堀しか防御施設がなく、連絡用の砦の位置づけとみえ、実際の合戦ではすぐに兵が撤退する場所である。氷上山は小高い山であるが、大高城よりも海岸線の船の出入りを見張る物見がある程度の砦であった。よって、熱田湊から大高の船着場の監視所としての限定された役割しか果たしえず、砦を守備兵でいっぱいにするようなものではない。正光寺砦も、小高い山から大高城を見張ることができる(現在はマンションが邪魔で見通せない)が、ここは大高城の南東にあって、東側からの敵をけん制することができるように思えた。兵を置くとすれば正光寺砦なのだろうが、織田勢としてはそこに兵をさくよりも、今川本陣を狙う兵を多くしたかったのであろう。実際に桶狭間合戦でも、守備兵はいなかったと思われる。 水野帯刀は、常滑水野氏の喜三郎忠綱の子であったようで、戸部水野氏というべき家を分立していた。つまり、水野氏の主流からはずれた人物である。よほど、水野氏主流は、桶狭間合戦に名前を出したくなかったのか。 また、中島砦をまもった梶川一秀は平氏の出で、織田信長の家臣である。出身も尾張国丹羽郡楽田といわれ、今の大府市横根に城を構え、水野信元の成岩城攻略後に成岩城主となった梶川五左衛門秀盛など、水野氏重臣の梶川氏とは関係ないかもしれない。ちなみに、水野氏重臣の梶川氏は、大脇城の城主でもあったらしいが、大脇城は発掘によって実在が証明され、堀や溝で囲まれた居館や屋敷などが見つかっている。井戸からは常滑の壷と鉢が完全な形で出土しているほか、「天正四年」(1576年)及び「大御堂寺」が記された護摩札が出ており、戦国期の武士の生活を知る貴重な資料となっている。 なお、真相を知る男、水野信元は後に天正3年12月(1576年1月)佐久間信盛の讒言により武田勝頼との内通を信長に疑われ、岡崎の大樹寺において殺害された。 知多半島は春になると、各地区で春祭りを行う。半島の南のほうから、小生が住んでいる武豊町や半田市、あるいは常滑市といった地域は4月には祭りのシーズンになるが、よそから来た小生のような人間は交通規制が一番の関心事である。 半田は特に山車で有名で、図書館に隣接した博物館には大きな山車が展示され、五年に一回秋に行われる山車祭りには市内だけでなく、愛知県・近県から観光客が集まる。山車の巡行は京都の祇園祭の山鉾巡行に似ているが、あれほど大きなものでなく、各町の地区ごとに小ぶりな山車を持っていて、それがその地区の神社などから出発し、町の主だった筋をまわっていく。 もともと、知多半島は中世から海運で栄え、農業・漁業に加えて窯業が盛んな地域であったが、半田や武豊は江戸時代から酒、酢、味噌、醤油などの醸造業が盛んなところであった。江戸時代、灘の酒と称して、知多半島で作られた酒がかなり出回っていたようだ。酒は今でも、国盛とか半田郷などあり、初夢桜というきれいなネーミングの銘酒もある。また酢では、有名なミツカン酢、中埜酢店の本社は半田にある。 例年、三月下旬から五月上旬まで、各町それぞれの氏神社に、豊作、豊漁、繁栄、息災を祈願して春祭りが行われるが、会社の人でも祭りに熱心な人もおり、この時期になると知多半島のケーブルテレビでは祭りの様子を延々と流している。なぜ、かくも祭りに熱心なのだろうか。 祭りの出物は、山車や踊りなど。まあ、何といっても山車であろうか。山車は江戸時代に作られたものから明治、大正、昭和のものがある。成岩神社のは、一台が江戸時代、あと三台は大正期に作られたものである。抱き地蔵の近くに格納されている旭車という、山車は、大正13年(1924)建造のものであるが、大幕という、山車の胴の部分にかけられる朱色の布幕にはきれいな亀の刺繍がほどこされている。 各地区、各神社ごとに色々な山車があり、その彫刻や飾り物の贅を競っているように見えるが、彫刻は古今の豪傑英雄や神々、竜虎、亀といった動物、説話の登場人物などが題材である。大幕には、金糸銀糸でやはり英雄や竜虎などが刺繍される。 稚児が三番叟を舞うのも、祭り情緒をかもし出す。下は、偶然撮ったもので、おそらく家族と思われる人たちが稚児役の少年を背負っていく様子。だいたい、カメラ持参で、さあ撮るぞと向かったときには失敗が多いが、偶然カメラを持っていて撮ったもののほうが良いものが撮れるものである。 昼食で、魚料理の店にいったところ、カウンターに山車の模型が置いてあった。知多半島は、春は祭り一色のようである。 秋葉原といえば、昔はラジオ商など電気屋さん、それもパーツを扱う小さな店がひしめきあい、後に家電量販店ができるなどして大衆化したが、どちらかといえばマニアの街という感じが強かった。 電気街以外には交通博物館、そして万世橋、それが昔の秋葉原の印象である。世の中の流れは、秋葉原の街も変貌させた。昭和5年(1930)にできた万世橋は、そのままであるが、交通博物館はいつの間にか閉館になっていた。去年の10月に埼玉でリニューアルオープンという看板がかかっていたので、もう埼玉で開館しているのだろう。 秋葉原は、前に述べたように、戦後の闇市の延長のような街で、ごちゃごちゃしたパーツ屋が軒を並べ、ラジオの部品とかが売られていた。半田ごてを使ったりしてそうした部品を組み合わせ、ラジオなどを作る遊びは、今の子供はやらないのだろうか。今時、ラジオ自体あまり流行らない、インターネットの時代である。今も秋葉原にはパーツ屋もあるが、やはり量販店が主流だろう。 そして、今や電気街は大きく発展し、外国人観光客の買い物スポットであるし、最近ではつくばエクスプレスが出来て、秋葉原はその出発点となった。千葉県北西部からつくばにかけて、学研都市や新興住宅地ができたが、それらを結ぶ路線の出発点が秋葉原なのである。 そのつくばエクスプレスの一つの駅に、柏の葉キャンパス駅がある。キャンパスというのは、東大と千葉大のキャンパスがあるということを意味し、主に東大のことをいっているのかもしれない。実は、ここは戦時中まで柏陸軍航空隊で、戦後は米軍の通信基地とされた。それが返還されて、大学や公園、官庁などが出来ている。 ところで、柏の葉キャンパス駅周辺の土地には、もっと以前からの歴史がある。原野に近いとはいえ、まったくの無人の原野であったわけではない。 下総台地は、古来野馬がいて、それが中世から放牧され、軍馬の供給地とされてきた。そして、江戸時代には小金牧や佐倉牧という幕府直轄 の牧がつくられた。小金牧でいえば、五牧とかいうが、その牧はかならずしも固定的ではなく、牧での新田開発、開墾は江戸時代から一部行われて いた。小金牧を小金五牧というとき、それは上野牧、高田台牧、中野牧、下野牧、印西牧をいう。庄内牧というのもあったが、享保年間になくなったので、五牧には数えない。江戸初期には、一本椚牧というのもあったが、中野牧に吸収された。 明治維新で明治新政府ができると、家禄を失った旧武士階級や都市困窮民の救済のため、 下総の牧の大規模な開墾が新政府によって企てられ、入植が行われた。 高田台牧は柏市十余二・高田のほか流山市の一部にまたがる。この土地が開墾され、原野が農地になる過程では、他の開墾地同様、開拓民の苦労があったわけであるが、ここには開拓民を小作農として大隈重信が広大な土地を所有した地主として君臨していた。現柏特別支援学校付近に、明治初期、大隈重信が屋敷部分だけで10,000m2を超える土地を所有していたという。 小金牧開墾の記念碑には、そうした開拓民の心情を表したものが見られるが、この高田台牧開墾の記念碑は、直裁にそれを表している。 明治二年より入植開拓せり初期入植者は自作農たるべき筈の処大隈及鍋島等の所有となりて八十余年昭和廿二年来の農地改革により初志貫徹すべて入植者の有に帰す」 しかし、明治初年の開墾とは別に、昭和13年(1938)に開設された柏陸軍飛行場が戦後海外からの引揚者、旧軍人ら約140人に払い下げられ、開墾されたが、朝鮮戦争後に一部が米軍基地として接収されたり、昭和38年(1963)にさらに施設拡充のため国に開拓地が買収されて中十余二開拓部落から農民が去り、開拓部落自体がなくなるなど、十余二周辺の入植者の苦労は絶えなかった。 今は十余二には農地もあるが、柏の葉地区はキャンパス、官庁、公園、住宅地となり、南側の高田にいたる地域は工業団地となって、明治の頃、あるいは戦時中までは想像できなかった姿に変貌している。 小生は船橋の人間である。生まれたのは、東京南部で神奈川に近い場所であるが、東京には通算5年くらいしかおらず、就職してから愛知、兵庫と住処を変えながらも、基本的には千葉県は船橋に居住してきた年数が長い。 しかし、船橋の中心はJR船橋駅の辺であろうが、そちらより東に住んでおり、習志野市も一部生活圏内のようなかたちで、習志野市と船橋市をあまり意識していない。そもそも、なぜ習志野市が船橋の一地名である習志野を市の名前として名乗っているのか分からないし、習志野市は船橋市に市町村合併で吸収されるものとばかり思っていた。 それはともかくとして、そんな地域に住んでいたために、小学校は小生の場合、近所のすぐ歩いていける小学校へ進み、中学校も同様であったのだが、近所の人の中にはわざわざ習志野市に越境通学する人がいた。同じ学年で、S君というのがいて、なぜか習志野市のT小学校に行った。小生も京成津田沼くらいまでは、歩いていけないこともなく、小学生の頃はそのあたりまで遊びにいったのであるが、T小学校をみて、ああここがS君が行った学校かと思ったものである。当時、T小学校にはある噂があり、子供ごころにも怖いと思ったが、その校舎は小生が通っていた小学校と同じように古く、木造2階建てくらいの建物で、金網越しに校庭をみると、なんとも狭いなあ、うちの小学校とたいして変わらないなあという印象であった。だから、なぜS君がわざわざその学校に越境して通っているのか、ますます分からなくなった。 ずっと、後になり、大人になって「T小学校は京成津田沼駅の南側にあったよな」と地元出身の友人に言うと、みな違うという。実際に場所を確認しても、それはJR津田沼駅の南であって、京成津田沼駅からみると西側の坂の上の高い場所にある。京成津田沼駅の南のほうから移ってきたんじゃないかというと、昔からその場所にあるという。 自分の記憶では、T小学校は京成津田沼駅のすぐ南にあり、場所は平坦な地形でまっすぐな道に面していた。T中学校の間違いじゃないかとも思ったが、それは津田沼町だった頃には存在したが、津田沼町が習志野市になってからは習志野一中、二中というネーミングで、小生の小学校時代にはすでにT中学という名前ではなくなっていた。また、その該当する中学校は全然違う場所にある。 単なる小生の記憶違いなのだろうか。JRと京成を間違えていただけだろうか。しかし、校庭の広さをみると、今のT小学校は小生が通っていた小学校よりはるかに広く、倍ほども広い。昔見たT小学校の校庭は狭かったと覚えている。この矛盾はどうしたわけか。 ある日、習志野の図書館で借りて、コピーした本の挿絵で、昭和3年の津田沼の絵図があり、そこに描かれていたT尋常小学校はまさに小生が記憶していた場所にあった。地形や校庭の大きさも、それなら納得できる。 やはり移転していたのだが、移転した日付はその小学校のHPによると小生が生まれた年に移転完了したことになっており、当然ながら小生の小学生時分には移転後の場所にあったことになる。では小生が見たと思っていたものは、何なのか。古い校舎が壊されずに残っていたのだろうか。もし、もう古い校舎もなかったとしたら、幻を見たのだろうか。 新京成の二和向台と滝不動の間と思うが、小学校の横に土塁状のものがあるのを電車に乗りながら見た。新京成線にはたまにしか乗らず、しかも津田沼から北習志野より先は殆ど乗ることがないため、今まで気付かなかった。それは勢子土手であり、江戸時代の牧遺構であることを最近知った。 先日鎌ヶ谷に行く用事があり、初富稲荷がすぐ近くにあったので、その境内に建った開墾記念碑をみた。これは「初富開拓百ヶ年記念碑」とかかれ、題字は当時の友納千葉県知事である。 下総台地の集落をのぞいた、大昔は原野であった部分をほぼ占める広大な牧は、中世以来軍馬の供給地として形成され、江戸時代には小金牧や佐倉牧という幕府直轄 の牧がつくられた。その牧はかならずしも固定的ではなく、牧での新田開発、開墾は江戸時代から一部行われて いた。明治維新で明治新政府ができると、家禄を失った旧武士階級や都市困窮民の救済のため、 下総の牧の大規模な開墾が新政府によって企てられ、入植が行われた。これは農業を振興させるという意味もあったろうが、士族授産や窮民対策の意味が強かったのだろう。 入植者は旧武士階級のほかは、東京にいた非農業の窮民であるが、彼らも元は農民であったものが多い。入植はしたものの、慣れない農作業、厳しい自然 環境に加え、新政府側の不手際もあって、開墾は困難を極めた。結局、当初の入植者は耐え切れずに少数しか残らず、少数残った東京窮民と近辺の農家の次男三男が最終的に開墾を成し遂げた。しかし、明治新政府、開拓会社は、開墾に苦闘する人々を途中で見捨てるような動きをしたため、開墾を成し遂げた人々の心境は複雑で、いくつか建てられた開墾記念碑のなかには、銘文がまったくないものもある。 初富、二和、三咲は新京成の駅名にもなっているが、近接した場所である。四番目の豊四季をとばせば、五香、六実も比較的近い。 初富周辺には、牧の遺構もある。たとえば、小金牧のうち、中野牧というのがあり、その込跡がある。これは、ぐるりと土塁が取り囲んで、馬を捕り込むもの。これは、「捕込(とっこめ)」ともいう。土塁が高く、またその製法は中世城郭と殆ど同じようであるから、よく中世城郭跡と間違えられるそうである。今も、中世城郭とされているもののうち、いくつかは「捕込」である可能性があるという。以前、鎌ヶ谷市道野辺にある道野辺八幡神社の境内が中沢城跡で、周辺にある土塁が城の土塁であるとされていたが、それは間違いで、土塁は牧遺構らしいということである。それで、中沢城は、未だに明確な比定地がない。 去年の7月16日、第5回千葉県北西部地区文化財発表会「Good Job!!」−昔の人のものづくりテクニックを学ぼう!−(開催場所:鎌ケ谷市中央公民館)という催しに行ったとき、発表会のあとで国の史跡となった野馬土手、すなわち小金中野牧の込跡の見学会もあったのだが、小生愛知に帰らねばならず、そのときには見ることが出来なかった。 中野牧込跡は、国の史跡の指定を受けているが、野馬土手はどんどんなくなっているらしい。それは住宅開発のためであったり、道路建設などの都合もあるだろう。かつてはありふれた光景であったのが、開発によって変貌し、貴重な文化財が失われるのは残念なことである。 貝柄山といっても、山ではない。写真の犬を連れた女の子も同じ方向を歩いているが、むしろ低地に向かっている。実は貝柄山とは縄文時代に貝塚があった場所であり、谷津田のような低湿地であったそうだ。 鎌ヶ谷、船橋には中野牧込跡以外にも、いろいろ牧遺構はあるようである。とりあえず、一度新京成電車を途中下車して二和の勢子土手をみてみようと思った。 最近、仕事で何回か、半田・武豊から外に出て、東海市や名古屋に行く機会があり、小生東海市で気になる地名を目にした。それは「城之腰」というもの。車で東海市の物流会社に行ったときに、車のなかから交差点にかかった標識で見たが、以前から半田街道に「内堀南」とか「白拍子」という交差点が近くにあり、中世城郭かなにかあったらしいと気になっていた。「城之腰」の読み方は「しろのこし」か「じょうのこし」か知らなかったが、どちらにせよ明らかな城郭地名である。 調べてみると、その「城之腰」の東側には、「城山」という地名があり、その「城山」に木田城という城があったことがわかった。実際に現地にいって、城跡周辺をあるいてみると、まず「城之腰」は「しろのこし」とよむことがわかった。その交差点から東にのぼっていった「城山」という場所に木田城の主郭があるというが、現在は住宅地になっていることがわかった。途中、浅間神社の祠があったが、そこも一段高くなっていて、防御施設があったかもしれない。また、土塁の残欠らしきもの、竪堀らしきものを見たが、不正確なことを書いても仕方がないので、図書館ででもよく調べてから、別途書くことにしたい。 この木田城こそ、今の東海市域の主要部を戦国時代に支配していた荒尾氏の居城であった。木田城は鎌倉末期に一色左馬助が築城したものを、戦国期に荒木空善が改修して居城とした。それは、今川方の知多侵攻に備えたためといわれる。荒尾氏というと、鎌倉幕府の御家人であった家があったが、戦国期に荒尾空善からはじまる系譜とは別であると思われる。その空善以降の荒尾氏は戦国時代を生き抜いて、池田輝政を祖とする鳥取藩池田家の家臣として存続した。その先祖は在原業平というが、それは伝承上のことで、実際には在地土豪であったと思われる。 実は室町時代には、当地には富田氏という氏族(尾張守護であった土岐氏の家臣という)がいたが、戦国期に緒川の水野氏が進出するに及んで、花井氏が水野氏と組んで富田氏の富田城を攻め、富田氏を退去させたか、あるいは、この荒尾氏が水野氏と結んで、富田氏を追放したらしい。荒尾氏は一応独立した豪族ながら、水野貞守から知多半島におおいに威をふるった水野氏にしたがっていたようである。 この荒尾氏は、織田信長の村木砦攻めに一役買っている。すなわち、天文23年(1554)1月、今川方が緒川の北、現在のJR尾張森岡駅近くに築いた村木砦をめぐった戦いにおいて、織田信長が自ら軍勢を築いてこれを攻めた際、途中にある鳴海城や大高城がすでに今川の手に落ちていたために、織田勢は一旦、海路これらの拠点を避けて、村木砦に向かうことにした。そして、1月22日、織田勢が熱田湊から船で馬走瀬(東海市横須賀)の浜(可家湊の辺り)に上陸、木田城に一泊した後、1月24日払暁、村木砦を襲った。可家の湊とは、以下の通り、万葉集にも詠まれた古くからある湊であった。その可家の湊があったあたりに建つ諏訪神社には、万葉の歌碑がある。古い歌碑は字が薄れてきたために、新しい歌碑も建っている。 ところで、荒尾空善は今川氏の尾張侵入によって戦死、村木砦の戦いの頃の当主は、大野佐治氏から養子に入った善次である。 大野の佐治氏や寺本の花井氏は、知多半島に今川家が侵攻した際に今川氏に付いたようで、花井氏はその後も桶狭間合戦にいたるまで今川方であり続けたのに対し、佐治氏は荒尾氏と養子縁組をするなど、途中で織田方に懐柔されたらしい。 荒尾善次は信長の軍を迎え、織田の軍勢は木田城だけでなく、周辺の長源寺、観福寺(高横須賀町山屋敷)にも分かれて駐屯、そして村木砦を攻めるのであるが、荒尾氏もこれに加わったとされる。 「城之腰」の交差点を「城山」とは逆に西へむかうとすぐに観福寺があり、しばらく歩くと長源寺の門のあたりに出る。長源寺は、延徳4年(1492)、大中一介禅師により開山された曹洞宗の寺。観福寺は知多でも有数の古刹で、寺伝によれば大宝2年(702)行基の建立といわれている。その沿革も宝徳2年(1450)に前身の本堂を建立したことが、寺蔵の棟札によって知られているだけで、そのほかの詳しいことは不明。しかし、相当の古寺であることは間違いなく、尾張徳川家の尊崇をうけ、文化財も多数所蔵している。また、当時は今より寺域が広く、「城之腰」交差点まで広がっていた。こうした寺院は、戦国期には荒尾氏の出城のように使われた可能性もある。 一方、寺本の花井氏は、代々現在の知多市の寺本城を居城とした。寺本城は青い瓦葺であったといい、青鱗城ともいう。花井氏は尾張守護であった土岐氏の被官だったというが、寺本の津島神社には、寺本城主花井信忠が嘉吉3年(1443)5月に津島社を建立した棟札が今も保存されている。戦国期には花井播磨守、勘八郎の二代が寺本城主であった。この花井氏は、今川勢の知多侵攻に伴い、今川方となっていた。天文23年(1554)1月25日、村木砦攻めに勝利して帰った、織田軍により攻められ、寺本城下は戦火にあい、甚大な被害を受けた。桶狭間の戦いの後は、花井氏は織田信長に従い、大野城主の佐治氏の大野水軍とともに、寺本水軍として西浦の海で活躍したという。 桶狭間合戦の際の伝承として、織田方である荒尾氏の勢力圏内の可家湊、前述の諏訪神社近くに、どういうわけか「今川義元の塚」がある。それは長源寺、観福寺とも近い、今の横須賀小学校に隣接した場所にあり、その土地は「今川」と呼ばれている。 伝承では、桶狭間の戦いで敗れた今川方の家来たちが、この地まで逃れ、義元の遺体を現在はない永昌寺に葬り、墓を守るためにこの地に住み着いたという。その子孫で「北川」「早川」という姓の者の子孫がいまでもいるという。 今川義元の首級は織田勢が首実検のために持ち帰ったが、それを鳴海城を守った岡部元信が強くアピールし、岡部が駿府に帰還させたという。また、胴塚も豊川の牛久保にあって、義元の嫡子氏真が供養したりしているので、そこに遺骸が葬られているのだろう。方角も桶狭間からは西にあたり、織田勢の多い当地に今川義元の塚があるのは、もちろん信じがたい。 面白いのは、傍らにある石塔に「今川義基墳」とあること。「義元」を「義基」として祀っているのは,織田の勢力が強いために遠慮して字を変えていると言われているが、一字替えたところで、すぐ分かるのではないか。 今川塚近くの地に、戦いに敗れた今川義元の家臣が逃れてきたが、ついに息絶え、村人が12人の亡骸を葬ったとされる十二塚という地名も残っているが、落ち延びてすぐに全員死んだとも思えない。 元治元年(1864)には,今谷要蔵という船頭が,伊勢の海で難破しかけたとき,日頃から信仰していた「今川さん」に助けられたとして,塚の周辺の地を買い取り,祠(ほこら)を建てたという話も残っており、確かに今谷要蔵の寄進した石造物が残っていた。 よくわからないが、今川方の敗残兵が桶狭間合戦の後、当地に漂着した。今川方であった花井氏の本拠である寺本に逃げたのかもしれないが、着いたところは、まだ織田方の可家湊であった。しかし、それを憐れんだ地元民がかくまったか何かで、彼らは当地に土着した。その伝承が残り、今川義元に結び付けられたのではないか。 終戦直前に現在の愛知県豊川市にあった豊川海軍工廠は、米軍機による爆撃にあい、壊滅的な被害を被った。そして、そこで働く、海軍軍人・軍属工員、徴用工、そして多くの勤労動員された人々が亡くなったのである。 1945年(昭和20年)8月7日午前2時40分から3時10分にかけて、グアム・テニアン・サイパンを米軍B29爆撃機、4爆撃団、計124機が飛び立ち、硫黄島からは護衛のP51戦闘機100機が飛び立って、豊川海軍工廠を目指した。同日午前10時13分、最初の空襲が始まり、4つの爆撃団は3つの編隊を組み、合計3,256発の500ポンド爆弾を10時39分までの26分間投下した。8月7日といえば、広島に原子爆弾が投下された翌日であり、長崎への原子爆弾投下とソ連参戦のあった8月9日の2日前である。まさに終戦直前ともいうべき時期に、米軍は気息奄々たる日本に駄目押しの如く、非戦闘要員である多くの職員・工員が勤務する海軍工廠への大規模爆撃を仕掛けてきたのである。この空襲に対し、日本軍戦闘機の迎撃はなく、御津町大恩寺山の高角砲が一斉射撃を行い、工廠内の高角砲からも射撃したが、大恩寺山の高角砲により一機が被弾、帰還途中の硫黄島付近で墜落したのみで、ほとんど無防備の状態であった。豊川海軍工廠では、この空襲により2,670名の人が亡くなったとされている。しかし、朝鮮人徴用工の被災者の実数が正確に把握されているとは言い難く、実際には3,000名以上の貴重な人命が失われた模様である。当日、通常通り勤務していた彼らはわずか20数分の間に爆撃と機銃掃射にさらされ、工廠は阿鼻叫喚の巷と化した。 防空壕に入ってもなくなる人はかなりおり、工廠周囲の堀の中に遺体が折り重なるようになっていたという。現在、名古屋大学太陽地球科学研究所の敷地内となっている火工部跡地の北西部分に、爆弾が落ちた跡があるが、直径3mほどで人が一人立って頭が出るか出ないかの深さ(1.5m以上)がある。さらに、残存する火薬庫や材料倉庫にも爆弾の破片が当たった跡や機銃で撃たれた跡が今も残っている。この防空壕は、指揮官壕以外は、一般に海軍の基地にあるようなコンクリートで固められ、半地下式の頑丈なものではなく、多くのものが地面を掘って天井に丸太などを渡して、土で覆ったようなもので、上からみるとCの字の形をした3mほどの長さのものか、人一人が隠れることのできるタコツボ状のものである。巨大な工廠の割には、防空壕などは貧弱であるといえる。すぐに生産活動に戻ることができるようにわざと簡素にしたといわれるが、これは軍の人命軽視のあらわれともいえる。特に、この工廠には多くの女子挺身隊員、動員学徒が働いていた。年齢的には現在の中学生位の年少者も多く、まだ人生の喜び、楽しみも知らない、そうした年少者からも多くの犠牲者が出た。実際に豊橋市立高等女学校から勤労動員で、豊川海軍工廠で働いていて、被爆した方の話を、工廠跡の見学会の際に小生のHPに協力してくれている親戚の森-CHANが聞いてきたが、それによると、「空襲警報が出たときには、既に頭上にB29の編隊が飛んでいた。そして、そのうちの1機が高角砲により被弾していた。その編隊を見た海軍の将校さんが『総員退避』と叫び、ふだん入場していた北東門ではなく、そのときにいた信管工場に近い正門から逃げた。防空壕に隠れたが、幸いに無事であった。防空壕に隠れた人でも、爆撃を受けたり、生き埋めになって死んだ人が多い。500ポンド爆弾が落ちた時の爆音は、腹の皮が震えるくらいに響いた。正門の近くで、整列した状態で死んでいる人たちがいた。防空壕に入って死んだ人もいれば、防空壕から出て機銃掃射で死んだ人もいる。私は正門に逃げたのが早かったから助かったが、爆撃の激しかった正門や西門に逃げて助からなかった人は多い。工廠では、部署によって逃げる門が決められていた。西門は、『命令がないと開けられない』と門番が頑張っていたので、逃げ遅れたり、門ではなく柵の下を這いくぐりモンペがボロボロになりながら北へ逃げた人もいる。北門や北東門に逃げた人は、割合助かっている。生死は、殆ど運次第であった。」という。その豊橋市立高等女学校の動員学徒からも、空襲の犠牲者は出た。豊橋市立高等女学校四五会が編んだ「最後の女学生−わたしたちの昭和」には、その生々しい体験が綴られている。 豊橋高女出身の女医、Wさんたち元勤労学徒の皆様には、いろいろお話をうかがった上に本までいただきました。あらためて御礼申し上げます。 自分の先祖がどこから来たのか、それは今の岐阜県多治見市、それも駅にごく近い場所ということは分かっているが、少なくとも140年も前であり、住んでいた家はもちろん現存しない。また、もともと江戸時代に可児郡中之郷といわれた、その場所に先祖代々いたかどうかも、よく分からない。それは足を棒にして、多治見市内を歩き回っても、図書館でいろいろ調べても出てこないのだから、どうにもならない。 小生の曽祖父は中之郷の児嶋覚治という人に従って、尾張藩のために戊辰戦争に従軍したらしいが、明治以降は関東に来て、小さな店を営む商人になっていた。児嶋家も今は多治見を去り、神奈川県に移住しているのだが、随分昔に多治見の社会教育施設で郷土史の担当の近藤さんから、「あなたのご先祖と同じ職業ですよ」と言われて驚いたことがある。ちなみに、その児嶋家は江戸時代には小島と表記していたが、その一帯には小島という家が多い。もとは「小島」だったのが、幕末・明治維新の時期に、一部は「児嶋」になったらしい。 森という名字の家は、付近に何軒かある。曽祖父が生きていた明治の頃は、行き来もあったのだろうが、今は親戚付き合いをしておらず、親戚かどうかも分からない。しかし、同姓で曽祖父と一字違いの名前の人、それも大正くらいまで生きた人、三人ほどの名前が、神社や寺の石造物に刻まれている。曽祖父には兄弟がいなかった筈なので、どんな関係の人か分からない。しかし、ほぼ同時代の一字違いの三人の男性は、おそらく小生の曽祖父を知っていたのではないかと思うと、不思議な気がする。 一度、曽祖父が存命であった明治30年頃に、何か多治見に帰らねばならない用事があったそうだ。それは何か分からなかったが、それも以前多治見の社会教育施設で、鉄道用地の買収に関しての用事ではないかと教えられた。 江戸時代には住民の移動は禁止されていた訳ではないが、あまり遠くへ移動することは商売のために上方から江戸へ出てくるような場合を除いてはなかったであろう。もし、江戸時代の後期になって、下街道沿いで陶磁器の産地であり、経済が豊かになった多治見に出てきたとすれば、多治見周辺のどこかの出身なのだろう。一般的には、江戸時代の移動とは、歩いて一日で行くことのできる距離の場所からの場合が多いようである。森という名字の人が古くから多そうな、そういう周辺の場所をみると、多治見市内では根本、岐阜県可児市の西可児、愛知県春日井市の明知などとなる。多治見市街地にも、そういう場所はあるが、明治以降急速に人口の増えた場所であるだけに、一旦はずして考えたほうが良いだろう。 そのうち、多治見市根本と可児市の西可児には行ったことがある。多治見市根本は、若尾元昌という武田氏系の武将の城があった場所、その菩提寺である元昌寺が残っている。また、若尾氏歴代の墓所もある。岐阜県各地にある森長可、森蘭丸関連の伝承地と同様に、ここにも森長可の子供であるという松千代、のちに成人して森玄蕃長義と名乗ったという人物の伝承がある。その墓もあり、「元和五未年 自得院殿因岩道果一處士 四月廿五日」とあるが、戒名の立派さに反比例して墓は簡素で、現在は他の古い墓と一緒に固められ、あまり大切にされていないように思う。 西可児には、真禅寺という森長可の首塚がある寺がある。土田城主生駒道寿が菩提寺にしたという寺で、天正11年(1583)には当地を支配した森長可が寺領を安堵、菩提寺とした。実はこの裏山に天正12年(1584)4月、長久手の戦いで戦死した森長可の首級を葬ったあとに、宝篋印塔が残る。この場所を長可の弟忠政の子孫である赤穂森家の殿様が訪れた際に、道案内をした人が森姓で、同じ一族だと言ったという。それはその殿様が日記にも書き残したために、伝わった話である。 可児には、長山城(明智城)があり、土岐明智氏の城であったという。その長山城が落ちるとき、斎藤義龍が差し向けた軍勢に立ち向った明智一族とともに、森勘解由という人が戦ったらしい(「明智軍記」に記載あり)が、長山城の周辺には森という家が見当たらない。西可児、帷子あたりには、何軒かある。可児川には、変な歴史館をやっている家もあったが、どうなったのだろうか。 そもそも、また「明智軍記」の森勘解由が、森長可の家とどういう間柄になるのか、まったく無縁であるかも分からない。 森長可が出たために、戦国時代の有名な森一族は、勇猛な武将の家とされたが、本来は兼山城に近い兼山湊をおさえ、経済面の能力に秀でた一族だったように思う。 しかし、小生の先祖が、そういうビッグネームに連なる根拠は何もなく、分かっているのは曽祖父が成人して以降の話ばかり。誰か、その地域で研究している人とかいれば話が早い。一つ気になるのは、小生の家が家紋を変えたらしいということ。多治見周辺の森という家は紋が、桐か鶴の丸であるが、小生の家の紋は別の紋で曾祖母の実家の紋と同じ、つまり曾祖母の実家の紋に変えた可能性がある。ところが、曾祖母の家は、関東であり、曽祖父の家とは何にも関係がない。にも関わらず、その紋は多治見でよく見かける紋である。早い話が、前出の小島という家の紋と同じである。あるいは、小生の家は、その家と親戚だったのかもしれない。だから、児嶋翁と戊辰戦争を転戦したのだろうか。つまり、偶然にも曽祖父の家で裏紋か何かで使っていた紋が、曽祖母の家の紋と同じだけで、我々後世の人間が、紋を変えたと思っているだけかも知れない。 多治見は美濃とはいえ、尾張との国境に近く、尾張の春日井にも、別系統かもしれない森という名字が固まった場所があり、考えたくはないが、全然別のところから移住してきた可能性もなくはない。 そうなると、まったく手掛りがなくなるのだが、ふと見た石仏の表情の優しさは、もっと足元を見れば何か分かるかもしれないと言っているようであった。 桶狭間合戦における総大将今川義元の不慮の戦死、それによる今川勢の敗退は、海道一の弓取りといわれた今川義元を失っただけでなく、三河、遠江を支配下においた、駿河今川氏にとって権威を失墜させるという、大きなダメージとなった。 もとは尾張那古野城は、今川氏豊が守っていた。天文7年(1538)、これを織田信秀に奪われて、今川氏豊は追われて京に逃げ、今川は尾張における拠点を失った。以来、今川方は鳴海城主であった山口教継を寝返らせたり、山口教継の調略で大高城を手中に収めたりして、尾張に楔を打ち込み、知多半島の寺本の花井氏などの諸士を幕下に置くにいたる。 一方、織田信秀の死後あとを継いだ信長は、村木砦では自ら軍勢を率いて今川勢と戦い、今川の手に落ちた大高城の周りには鷲津、丸根の砦を築き、鳴海城は善照寺砦、中嶋砦で包囲した。 永禄3年(1560)の桶狭間合戦は、今川家当主を子の氏真に譲った、今川義元自らが出陣し、鳴海、大高の囲みを解き、さらに清洲に攻め寄せ、尾張を攻略する目的で戦われたのであるが、あえなく今川義元自身が桶狭間で戦死するという事態となった。 その桶狭間の合戦で動向が分からないのが、水野信元である。桶狭間合戦に先立つ、村木砦をめぐる戦い、石ヶ瀬合戦においても、松平を含む今川勢は、織田方となっていた緒川水野氏と戦ったのであるが、当主水野信元の去就がはっきりしない。特に、村木砦に砦を築くようなことが今川勢に出来たとするなら、敵地に普請をしたことになり、刈谷、緒川の水野氏はそれを傍観していたのかということになる。下記は天文20年(1551)の知多半島の勢力図(「戦国知多年表」木原克之著所収)であるが、みられるように今川勢が三河方面(たとえば重原城)から資材を運んで、砦を築こうにも、刈谷・緒川水野氏の勢力圏を通ることなしに村木までたどり着けない。また村木は緒川の北に位置し、緒川水野氏の勢力圏である。 天文23年(1554)の村木砦の戦いは、水野信元が日和見をするなかで、織田信長が緒川水野氏の流れであるが布土城主になって知多における織田直系であった水野忠分を助ける形で展開していたとみるべきで、その後の石ヶ瀬合戦や桶狭間合戦に水野信元が積極的に関与していない事情があったと思われる。すなわち、明確に今川方に寝返っていたわけではないが、水野信元は織田にも今川にも通じていたように思われる。 もう一つ、動向がよく分からなかったのが、大高城にいた水野大膳亮忠守である。その父は和泉守忠氏といわれるが、忠氏という名乗りは、大高城址に程近く水野大膳がその父和泉守の位牌祈祷所として開創したという春江院に残る系図に「忠氏 大膳後和泉守大高城主 弘治二年辰三月廿日卒 号春江全芳」とある(『張州雑志』第一巻に記載)のみで、実際は「近守」が正しいという。その水野和泉守の子大膳亮忠守は、桶狭間合戦の前、永禄2年(1559)迄に大高城が今川方の手に落ちると、どこかへ退転した。それは緒川か刈谷であろうと思っていたが、ヘロン氏によると、水野大膳亮忠守は刈谷古城にいたのだそうである。この水野大膳亮忠守も、桶狭間合戦に登場していない。水野大膳亮忠守の子は大膳亮吉守で徳川家康に仕え三千三百石、吉守の子、大膳亮正長は織田信長、徳川家康と仕え、大高城に居城するも関が原合戦で負傷しなくなった。天正13年(1585)の『織田信雄分限帳』に「大高郷 水野大膳」とあるのは正長か。忠守のもう一人の子正勝は織田信長に仕えた。正勝の子は、宗勝で、織田信雄に仕えた後、徳川家康の家臣になっている。何れの系統も徳川将軍家直参となり、大高水野氏は旗本として残ることになるが、刈谷・緒川の水野氏と、桶狭間合戦で行動が分からないことやその後の動向までよく似ている。 織田・今川の両雄に挟まれていたのは、松平も水野と同様であった。しかし、松平元康、のちの徳川家康は、石ヶ瀬合戦でも、桶狭間合戦でも、明確に今川方にたった。しかし、桶狭間合戦後は、明確に今川方を離れ、今川氏真の軍勢と戦っているのである。 その画期がいつかという点については、議論の分かれるところである。従来は、松平元康、のちの徳川家康は、今川氏真に父の仇を討つように進言し、自身は織田・水野の軍勢と各地で戦った。しかし、今川氏真は暗愚で政治、軍事に向いていなかったため、一向に尾張に攻め込もうとしなかった、そうするうち、水野信元の仲介で織田信長と手を結ぶことが提案され、永禄5年(1562)になって、それにしたがって織田・松平の同盟(清洲同盟)を結んだ、という説が根強く、江戸時代から支持されてきた。 しかしながら、今川氏真は義元の生前すでに家督を譲られており、氏真自身も桶狭間合戦後、功績のあった家臣に対し、恩賞を与え、戦死した家臣の子には家督相続させ、所領の安堵状などを発給するとともに、寺社にたいしても旧来の特権を改めて安堵するなど、敗戦のショックによる動揺を抑え、領国経営を進める努力をしている。たとえば、岡部元信には鳴海城死守の戦功を賞し、旧領北矢部、三吉の地を返す判物を出しているし、戦死した松井宗信の子、宗恒には遠江国の所領を安堵している。少なくとも、今川家の威信が大きく低下したなかで、最後には縁戚の後北条氏を頼って出奔するまで、駿府から掛川に居城を移したりしながら、曲がりなりにも十年持ちこたえたのである。これは、今川氏真が後世言われるほど凡愚でなかった証明にもなるだろう。 一方、家康は大高城を永禄3年(1560)5月19日の合戦当日の夜引き払うと、一路岡崎に向かい、以下の『三河物語』の記述にあるように、大樹寺にいったん陣を張り、今川勢が岡崎城から出て行ったのを見計らって「捨城ならば拾わん」と、早々に岡崎城に入っている。非常に鮮やかであり、その時すでに今川からの自立を目論んでいたように思える。 「大高之城ヲ引迫力せラレ給ひて、岡崎にハ未駿河衆が持テ居タレ共、早渡シて退キタガリ申せ共、氏真にシツケノタメに、御辞退有て請取せラレ給ハズシテ、スグに大樹寺へ御越有て御座候えバ、駿河衆、岡崎之城ヲ明て退キケレバ、其時、捨城ナラバ拾ハント仰有テ、城へ移ラせ給ふ。」 つまり、前回述べたように、岡崎入城自体、駿河に帰らねばならない立場の家康が、あえてそうしたのは、義元なきあとの今川氏はもはやこれまでで、この難局を乗り切るのは氏真では無理だろう、今川の呪縛からの脱出は今が好機との計算があったと思われる。そして、今川方の動向も見据えた上で、岡崎での独立を考えていたのだろう。 岡崎に戻った家康は、旧家臣団の掌握に努め、義元の代に今川の領国にされていた碧海郡、加茂郡を確保するために積極的に動き出す。これは永禄3年(1560)中のことであり、それが今川氏真との対立を招くことになる。翌永禄4年(1561)1月には、両者の対立を収めようと将軍足利義輝が、いろいろと手を尽くしたほどである。したがって、松平元康、後の徳川家康が今川氏の呪縛から離れ、独立のための行動を起こしたのは、意外にはやく、永禄3年(1560)の6月以降年末までのどこかになる。そのことについては、また次回。 豊川牛久保に、今川義元の胴塚と称されるものがある。それに関し、牛久保まで義元の家臣が遺骸を運んだが、追撃にあい、やむを得ず、大聖寺に手水鉢を目印に葬ったという伝承がある。そんなところまで織田軍が追撃してきたとは考えられないが、その伝承が気になる。実際、大聖寺に義元の遺骸を埋めたなら、単に新暦6月の暑くなる頃で腐敗が進行していたためと考えるのが最も妥当で、他に遺骸を運んだ家臣が土地の者であったとか、その家臣が疲労のためやむなく埋めたとか、いろいろ理由は考えられる。そこが本当に義元胴塚かは不明なるも、今川氏真が父の三周忌を大聖寺で営み、位牌所として寺領の支配、諸役免除を認めた安堵状を与えたと言うところから、なまじ嘘でもなさそうである。では、追撃(もしくはその風聞)があったとしたら、三河で今川家に敵対する勢力があったのか、これは桶狭間合戦直後の話として伝承されているものの、松平元康の永禄3年(1560)中の勢力拡大のための各地転戦で、東三河にまで矛先を向けたという伝承ではなかろうか。 明治初年、当時の陸軍はフランスから招聘したルボン砲兵大尉の指導のもと、佐倉藩の「火業所」を拡充し、砲兵の演習場とすることを計画、実施した。それは、射場(土手)を増築し南北三千メートル幅三百メートルの射的場としたものである。このように、現在の千葉県佐倉市下志津原には1886年(明治19年)に開設された陸軍砲兵射的学校を中心に陸軍演習場(射的場とも呼ばれた)があって、南の四街道市(1897年:明治30年に陸軍砲兵射的学校が陸軍野戦砲兵射撃学校と改称、移転)とあわせて砲兵のメッカであった。陸軍砲兵射的学校の跡地には、「日本砲兵揺籃の地」という藤江恵輔陸軍大将の立派な揮毫による石碑がある。これは戦争遺跡について書いた書物やHPでも取りあげられ、知るひとぞ知るものになっている。そのかげに隠れているが、下志津原を西にバス通りを進んだ西志津にも戦争遺跡がある。<陸軍砲兵射的学校の碑> それは戦車壕の跡。ちょうど西志津小学校の裏手にある公園に、その跡が残っているが、以前はその付近一帯にあったらしい。小生、その場所がなかなか分らず、コンビニの店員さん、付近の主婦の方お二人と、近隣の人に聞きながらたどり着いた。その前に行った陸軍砲兵射的学校の碑についても、タクシーの運転手にテニスコートまでと言ったにも関わらず、離れた場所で下されたため、農作業をしていた農家の方に聞いて、なんとかたどり着いたのだが、それはともかく。その壕とは、1mほどの高さに土盛され、その頂上から深さ2.5mほどの穴が掘られた長方形の壕であったらしいが、現存するものは穴はふさがれてしまい、ちょうど公園の築山のようになっている。その周辺は「芋窪」という地名で、その名の通り、芋がとれるような農地もあったのか分らないが、現在の西志津8丁目南端の台地上で開発前は山林だったという。しかし、その面影はなく、今では瀟洒な住宅が建ち並んでいる。その公園も、「芋窪」の名を冠しているが、新興住宅地によくある公園にしか見えない。つい最近(2007年12月2日)、この地に来たが、楓の紅葉が美しかった。ここが、戦車壕のあった場所というのも、立札もなく、おそらく住民の方も知らないのではないか。<戦車壕跡〜北から見た> <戦車壕跡〜南から見た> なお、その戦車壕を使った訓練は、千葉穴川の陸軍戦車学校(元は習志野にあったが移転、1940年には千葉陸軍戦車学校と改称)、あるいは習志野の戦車第二連隊(1933年に千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊が発展改組)が行っていたようである。その戦車第二連隊の母体と成った千葉陸軍歩兵学校はわずかに裏門跡の遺構と記念碑があるが、穴川の千葉陸軍戦車学校は遺構とて残っていない。習志野の戦車第二連隊は、元々騎兵第十四連隊が駐屯していた場所に、騎兵第十四連隊が出て行ってから入ったが、現在は日大生産工学部の敷地になっている。その戦車第二連隊の碑が、日大生産工学部にあり、許可を得て立ち入り、写真も撮らせてもらった。<日大生産工学部正門> <日大生産工学部にある戦車第二連隊の碑> ちなみに、その碑文は以下。連隊の連の字が旧字体になっているが、原文のままとした。開設から終戦にいたる経緯が割合簡潔に書かれている。「戦車第二聯隊の跡 戦車第二聯隊は昭和八年八月千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊を強化改編して、国軍最初の戦車聯隊として創設され、騎兵第十四聯隊駐屯の跡に移駐した。その教育部に、全国歩兵聯隊から派遣された将校・下士官の教育に専念し、後に陸軍戦車学校に発展した。 昭和十二年七月動員下命、聯隊の主力は北支に出動、保定会戦、黄河以北戡定作戦、徐州会戦等に赫々たる武勲を揚げた。十三年七月、部隊は戦車第八聯隊に改編され、中原会戦、満州・北支警備等の後、十七年秋、南海のラバウルへ転進した。 戦車第二聯隊は昭和十三年七月留守隊を強化し、此処習志野で再編成された。十六年秋再び動員され、蘭印作戦に参加し各地に善戦した。分遣された第一中隊はビルマ、第四中隊はガタルカナルに於て悪戦苦闘した。聯隊は十七年秋習志野に帰還した。 この間、習志野で編成した戦車第四大隊は昭和九年奉天に、支那駐屯軍戦車隊は十一年天津に、戦車第十七聯隊は十七年綏遠省平地泉、独立戦車第七・第八中隊は十九年夏フィリッピンに派遣された。 河野第七中隊はレイテ島に、岩下第八中隊はマニラ飛行場周辺に三度壮烈な出撃戦を展開、戦車魂を発揮して全員華と散った。 戦局緊迫するや、動員令により戦車第二聯隊は昭和十九年相模地区に移動、その補充隊は二十年四月新たに六個の戦車聯隊を編成し、相共に配備につき本土決戦に備えたが、八月終戦を迎えた。この度、日本大学当局より理解ある御協力を戴き、有志相図り、幾多戦友の偉勲を偲びつつ、此処戦車第2聯隊駐屯の跡に、この碑を建て聯隊の事蹟を永く伝う。 昭和六十三年八月一日 戦車第二聯隊会 」戦争遺跡をめぐって困るのは、それが書かれた文献などはあっても、場所を正確に分りやすく書いたものが少ないこと。最近では、タクシーの運転手もよく道を知らず、乗ってから「しまった」と思うこともしばしば。そういう場合は、地元に長年住んでいそうな農家の人や商店の人に聞くしかない。今回、佐倉市志津方面を訪ね、一部その内容は、「佐倉市の戦争遺跡2」に載せたが、結構色々な人に道を聞いたり、お寺では西南戦争の戦死者の墓の場所を教わったりした。皆、親切に教えていただき、大変お世話になった。そういう人たちが、このHPを見ているとも思えないが、改めて感謝申し上げる。 今川義元が桶狭間で討たれ、今川勢が尾張の喉元まで迫った戦は、あっけなく幕をおろした。その後の今川勢譜代の連中は、鳴海城をよく守った岡部元信を除き、勝手に引き揚げてしまい、大高城に兵糧入れして、そのまま守将となった松平元康、後の徳川家康は、織田方の勢力の只中の大高城に取り残された。もし、大高城を織田勢が総掛りで攻めたなら、大高城も落城したであろう。その場合には、日本の歴史は大きく変わっていたに違いない。 この孤立した徳川家康に、今川が負けたことを知らせたのは、水野信元で、水野氏の手引きで岡崎まで落延びたという説がある。あるいは、水野信元の使いが桶狭間の合戦の次第を知らせてきた、しかし家康はこういう時は縁者でも信用できないといって、ひたすら篭城の用意をしていると、岡崎の鳥居元忠から知らせが来て、初めて退却を決めたという。 「大高の城の漸く薄暮に義元戦死の由聞ゆる所 参州碧海郡刈屋の城主水野下野守信元より浅井六之助道忠を以って義元の戦死を告、且明日信長来たり攻べし、夜中城を避て帰国せらるべき旨を達す。神君曰く野州は伯父といえども織田方なり。必ずも信ずべからずとて、先ず道忠を虜にし、其実を得て去ベキ旨を宣う」 とある。野州とは下野守水野信元を意味し、いかに伯父といっても織田方なので必ずしも信じられないと徳川家康は言い放ち、浅井道忠を捕虜にして、今川義元討死の事実を確認してから大高城を退去すると言ったと、書かれている。 これを筆者は、桶狭間の合戦に先立つ、村木砦をめぐる戦い、石ヶ瀬合戦において、今川勢は、織田方となっていた緒川水野氏と戦ったのであるから疑義があると前にも述べた。いかに身内であっても、今川方の武将を、織田方にたって今川勢と合戦もしてきた水野信元が助けるのは、やはり納得しにくいものがある。しかも、桶狭間合戦後には、徳川家康と水野信元は石ヶ瀬で合戦を行っているのである。 大高城の徳川家康に、今川義元が討たれ、今川勢が負けたことを知らせたのは水野信元という説は、大久保彦左衛門が書いた「三河物語」によるものと思われる。 「義元ハ打死ヲ成サレ候由ヲ承候。其儀二於てハ、爰元ヲ早々御引除せ給ひて御尤之由各々申ケレバ、元康之仰にハ、タトヱバ義元打死有トテモ、其儀、何方よりモ聢トシタル事ヲモ申来タラザルに、城ヲ明ケ退キ、若又、其儀偽ニモ有ナラバ、二度義元に面ヲ向ケラレン哉。其上、人之サゝメキ笑種に成ラバ、命ナガラエテ詮モ無。然バ、何方よりも聢トシタル事無内ハ、菟角に退カせラレ間敷ト、仰除テ御座候処え、小河より水野四郎右衛門尉殿方カラ、浅井六之助ヲ使にコサせラレテ、其元御油断ト見えタリ。義元社打死ナレバ、明日ハ信長、其元え押寄成ラルベシ。今夜之内に御支度有テ、早々引退ケサせ給え。然ば我等参テ案内者申スベシ由ヲ申越サレ候えバ、六之助、主之使に来りて申ケルハ、我等に御案内者申て、早々御供申せ。信長押寄給ハゞ、御六ケ敷候ハント四郎右衛門申越サレ候間、我等に三百貴下サレ給え。御供申サントテ、知行ヲネギリテ、御案内者ヲ申ケリ。 水野四郎右衛門尉殿ハ、腹ヲ立、憎奴バラメ。成敗ヲイタシ度ト申サレ候え共、敵味方之事ナレバ成敗モ弄。大高之城ヲ引迫力せラレ給ひて、岡崎にハ未駿河衆が持テ居タレ共、早渡シて退キタガリ申せ共、氏真にシツケノタメに、御辞退有て請取せラレ給ハズシテ、スグに大樹寺へ御越有て御座候えバ、駿河衆、岡崎之城ヲ明て退キケレバ、其時、捨城ナラバ拾ハント仰有テ、城へ移ラせ給ふ。」 これによると、徳川家康のもとにはすでに今川義元が討たれたらしいという情報が伝わっていたが、それが確かなものか判断しかねていた。その頃、水野信元から浅井六之助道忠が使者として派遣され、浅井六之助は「今川義元が討ち死にしたのは事実で、明日には織田信長の軍勢が押し寄せてくる」と述べ、三百貫をくれればご案内すると金をゆすりとろうとした。その願い通り、浅井六之助はご案内役をつとめたが、そのことを知った水野信元は立腹した。家康が岡崎に入ると、今川勢はまだ岡崎城にいたが、城から退散したがっていた。家康は大樹寺を本陣と定め、兵を休めた。今川勢は無断で岡崎城から退散し、それを知った家康は「捨城なら拾おう」と言って、城へ移った。この最後の「捨城ナラバ拾ハン」という言葉は、いろいろな劇や映画でも有名である。 この「三河物語」は、大久保彦左衛門が自分の子孫に受け継ぐために書いたものであり、世の中に公開する目的で書いたものではないとされる。そして、一部明らかな記憶違いなどを除くと歴史的事実の記述も多く、史料としての信憑性も比較的高いという。しかしながら、桶狭間合戦は永禄3年(1560)の合戦であり、大久保彦左衛門はその永禄3年(1560)生まれである。したがって、桶狭間合戦については、大久保彦左衛門が直接経験したものではなく、その記述も伝聞によるということになる。しかし、大久保彦左衛門は、それが事実と思って書いたのであろうから、「三河物語」が成立した元和年間には徳川家康の周辺では通説になっていたのであろう。 徳川家康が大高城から脱出した頃、鳴海城の岡部元信は、今川義元の首級をもらうという条件で鳴海城を開城し、駿河を目指して進んでいった。その途上、岡部元信は刈谷城を襲い、城主水野藤九郎信近を討ち取っている。 とあり、はかりごとをもって刈谷城の水野藤九郎信近や主だった者を討ち取り、城内に放火したことがわかる。また、上記文書は今川氏真の発給した岡部元信の所領安堵状であることからも、氏真が合戦後に失われた家中の統率を取り戻そうと、領国経営に努力していたことが分かる。 桶狭間合戦において、水野氏本流である、緒川刈谷水野氏の動向がよく分からないが、唯一この事跡のみが、古文書にもあり、歴史上表面化している。 そもそも、水野氏本流、特に水野信元は永禄元年(1558)の石ヶ瀬合戦においても、積極的には動いていないふしが見られる。またそれに先立つ村木砦の戦いでは、本来表にたつべき水野氏よりも、織田信長自身が前面に出て、今川方と戦っているのである。その際に出動した水野氏は水野信元ではなく、緒川水野氏の流れではあるが、布土城主となった水野忠分であるという。桶狭間合戦では、水野信元は織田方でありながら、同時に今川方にも場合によってはつくような日和見をきめこんでいたのかもしれない。 そう考えると、大高城の徳川家康の脱出を助けることは、まったく考えられないわけではない。もともと、水野氏は信元の先代、忠政の代には、今川・織田両家によしみを通じており、松平と水野が姻戚関係を結んだのも、水野氏の両雄に挟まれた不安定な境遇を象徴しているといえる。信元の代となり、織田方であることを鮮明にしたものの、村木砦を橋頭堡として今川氏が尾張獲得に乗り出すと、常に今川方の動静を注視していたのはもちろんである。もし、水野信元が徳川家康に浅井道忠を使者として送り込んでいたならば、家康に織田方へ寝返るように工作するとか、もし合戦の勝敗がつく前なら、逆に自らが今川方に密かに通じようとして、その使者として送り込んだという可能性はある。それが、家康に取り込まれ、道案内をさせられたとすれば、三河物語にあるように水野信元は怒っただろう。だが、以前に述べたように、徳川家康は大高川を下って、伊勢湾に出て海沿いを大野か常滑に上陸し、坂部を経たかどうかは分からないが、成岩浜から三河にふたたび海路を使って戻ったと信じるものである。 また、松平元康、後の徳川家康が、大高城で今川方の敗北をいつまでも知らないでいたことはありえず、目と鼻の先にある鷲津砦や丸根砦にいた朝比奈、鵜殿といった今川勢が引き揚げるのを見ていたはずであり、今川勢に異変があったことは分かっていただろう。それでも大高城に留まっていたのは、本来今川義元が大高城に入るのを迎えることになっており、今川義元本隊はどうしているのか、またその他の隊の状況はどうか、織田勢の動きはどうかと、合戦の動向を見据えた上で、その次の行動を起こそうとあえて慎重になっていたと思われる。そして、合戦の動静を探らせていた自分の部下、それは鳥居元忠といわれるが、その部下が戻ってきて、もたらした情報により、退却を決めたのに違いない。 しかし、なぜ今川義元が討たれたことで、今川勢はかくももろく崩れ、駿河などへと敗走していったのだろうか。それは、一つには今川勢が譜代の勢力だけでなく、遠江、三河の外様衆も多く含まれる混成部隊であり、多くの重臣も失って、指揮命令系統が寸断されたためであろう。 桶狭間合戦では、今川義元をはじめ、蒲原氏政、久能氏忠、浅井政敏、三浦義就、吉田氏好、葛山長嘉、葛山元清、江尻親良、岡部長定、藤枝氏秋、牟礼泰慶、関口親将、松井宗信、斎藤利澄、井伊直盛、福平忠重、庵原忠縁、庵原忠春、庵原忠良、加藤景秀、鳥居直治、富塚元繁、由比正信、松平惟信、瀧脇松平宗次・長澤松平政忠、政忠の弟松平忠良、その他、主だったもの583人がなくなっている。 今川氏の軍勢は寄親、寄子制をとっており、今川の部将などの寄親の武士の下に地侍層が寄子として従い、その地侍が兵卒を連れるという構造となっていたため、寄親がいなくなると、配下の寄子は統率を失うという弱点を持っていた。 かくして、今川義元の討死という不測の状況下にあって、徳川家康の目指す場所は駿河ではなく、岡崎であった。駿河に帰らねばならない立場の家康が、あえて岡崎に入ったのは、義元なきあとの今川氏はもはやこれまでで、氏真ではたちいかないと判断したのではないか。氏真は一説には暗愚な人物とされるが、そうではなく桶狭間合戦後に功績のあった岡部元信に所領を安堵し、領国経営をなんとかやっていこうと努力する面もあった。しかし、氏真は偉い親父が腐心して支えてきた駿河、遠江、三河を守り抜く度量のある人物ではなかった。それをいち早く見抜いた家康は、岡崎にとどまり時節を待ったのであろう。 それでは、岡崎に戻った徳川家康は、いかにして自立し、東海に覇をとなえるようになったのであろうか。それについては次回。 松戸市小金にある西山浄土宗の寺、東漸寺は、今でも大きな寺であるが、かつては隣接する小金小学校が学寮であったように、寺域も広く、小金の宿場町の中心にあって、東葛地方はもとより、東京都東部、埼玉県まで関連寺院などもある寺であった。 この東漸寺、文明13年(1481)に、増上寺三世の音誉聖観上人の弟子経誉愚底上人によって、根木内に開かれたのがはじまりという。この経誉愚底上人は俗名長瀬氏、信州あるいは遠州の出身といわれ、鷲野谷の医王寺薬師堂を再建した。ほぼ同時代の人で、浄土宗の宗門に勢誉愚底上人という高僧がいるが、その人は京都出身、のちに三河松平家の菩提寺となった岡崎の大樹寺を開基し、京都知恩院の第二十三世となったが、もちろん経誉愚底上人とは別人である。しかし、名前が似ているために混同されることがあるようだ。 法然上人以降の浄土宗の宗門のなかで、知恩院、増上寺の住職ともなれば、高僧であったに違いないが、その増上寺三世の音誉聖観上人の弟子である経誉愚底上人、また自身が知恩院二十三世となった勢誉愚底上人、ともに宗門を代表する高僧といって良いだろう。 この経誉愚底上人は、遠州出身という説もあるが、信州筑摩郡洗馬出身、父は長瀬但馬守という武士で、その先祖は木曽義仲の家臣か、とにかく木曽氏に関係していたらしい。その経誉愚底上人自身は音誉聖観上人に師事して洗馬東漸寺で教化、下総は手賀沼沿岸の鷲野谷にいたり、鷲野谷にもともとあった医王寺が廃絶し、村人がその薬師如来を小さな堂にまつっているのをみて、村人と医王寺を再興した。特に、鷲野谷の土豪で、高城氏の家臣となっていた染谷氏が経誉愚底上人を尊崇し、浄土宗に帰依したという。この経誉愚底上人が高城氏の居城根木内城に近い場所に、東漸寺を開創したのも、高城氏の家臣であった鷲野谷の染谷氏がおおいに関わっていたと思われる。実際、染谷氏が経誉愚底上人が仏像を背に根木内に赴いた際に、捧持したという。 さらに、東漸寺は、戦国時代、第五世行誉吟公上人のときに当地の高城氏とのつながりを深め、小金に移転した。その寺域は広大で、小金大谷口城の出城としての機能をもっていた。 高城氏は、出自不詳。出身も九州説、紀伊説、東北説とあり、よく分らない。千葉氏の重臣原氏の家老であったのは間違いなく、東葛地方、現在の松戸、流山、柏、鎌ヶ谷、船橋、東京都東部、埼玉県東部を拠点にし、戦国時代末期には戦国大名化していた。東葛地方に拠点をおいたのは室町時代の途中からで、それ以前は原氏とともに小弓(生実)辺りにおり、「本土寺過去帳」の寛正6年(1465)の記事に「山倉高城雅楽助 法名妙助 中野城之落葉ニ路次ニテ死スル処、諸人成仏得道、寛正六乙酉四月 船橋陣ニテ打死」とあり、小弓近くの山倉(市原市山倉)にいた高城雅楽助が中野城(千葉市若葉区中野)の落城で落ち延びたが、船橋の陣で討死したとある。原氏が上総の武田氏や小弓公方足利義明によって、かの地を追われると、縁故のある八幡庄に落ち延びたらしい。 その居城は(栗ヶ沢城、)根木内城、小金大谷口城とかわったが、最近の研究では根木内城を高城氏が居城としていた当時、すでに小金城の前身の城(前期小金城)が存在していたようだ。前期小金城は、現在公務員住宅のある大谷口跡に近い、「本城」「中城」「馬屋敷」「外番場・西側」の郭構成であり、その主郭と見られる「馬屋敷」の西側下に「根郷屋」の地名が残る。これは、当初は根木内城の支城の位置付けの小規模な城郭であったことを意味する。 やがて、高城氏が小金大谷口城を拡張・整備し、それを居城にすると、根木内から城の近くに寺院なども移転する。東漸寺以外にも、高城氏の祈願所であったという大勝院は城の一部といえる東北の鬼門の方角に鎮座した。東漸寺は屈折した参道、参道の両側の土塁など、防備を考えた作りで、位置的にも小金宿の中心にあり、町場を守る役割を担っていた。これは中世の寺にはありがちなことで、石山本願寺などは寺というより城に近いし、寺の石垣も城の石垣を組む穴太衆がつくったものがある(坂本の西教寺など)。 胤吉の三男胤知は出家して東漸寺に入り、第七世照誉了学上人となった。小金における高城氏は、胤吉−胤辰−胤則と続いたが、天正18年(1590)に小田原北条氏と命運を共にし、戦国大名として滅亡した。 その後、生実大厳寺の源誉上人によって関東十八壇林が定められ、東漸寺もその一つとなった。照誉了学上人は、慶長3年(1598)に芝に移り、元和元年(1615)には徳川家菩提所である増上寺の第十七世住職となり、徳川秀忠の葬儀の大導師をつとめた。 このように、東漸寺は徳川家と強い結びつきがあり、徳川家康から朱印地百石を与えられたが、家光の代には三十五石に減らされた。しかし、東漸寺は、他にも寺領をもっていた。また、広大な境内を持ち、多くの建物を擁した。 明治初頭には、明治天皇によって勅願所(皇室の繁栄無窮を祈願する所)となった。江戸時代に幕府の擁護を受けた東漸寺も、廃仏毀釈等で、神殿、開山堂、正定院、浄嘉院、鎮守院などの堂宇をなくした。また、学寮およびその敷地は、地域青少年の育成のために寺子屋として利用され、後に黄金小学校(現・小金小学校)となった。 幕末は元治元年(1864)3月、水戸藩では武田耕雲斎、藤田東湖の子藤田小四郎らを首領とした天狗党が筑波山で挙兵し、各地で兵を募り藩の保守勢力と衝突した。小金の郷士で、芳野金陵の門下であった竹内廉之助、啓次郎兄弟も、この天狗党に参加したが、同年9月に啓次郎は戦死、廉之助は捕らえられて蟄居を命じられた。竹内廉之助は、慶応3年相楽総三の率いる薩摩藩邸の浪士隊に加わり、それが赤報隊となると、その幹部の一人となり、戊辰戦争を戦った。竹内廉之助の変名は「金原忠蔵」。これは、小金原を苗字としたもの。赤報隊には現在の鎌ヶ谷市佐津間出身の渋谷総司がいたが、渋谷総司の「総」も下総の「総」である。 しかし、赤報隊が偽官軍とされて、小諸藩などの信州の兵に攻められた際に、赤報隊は壊滅、この戦いで廉之助も戦死した。 竹内兄弟の碑は、東漸寺の本堂の向かって左側にあるが、銘は兄弟と交友のあった渋沢栄一が明治45年(1912)に記し、建立されたものである。 本土寺は、松戸市の北小金にある、日蓮宗の古刹である。このあたりは、平賀という地名が残っているが、もとは平賀家の屋敷がこの本土寺が創建される前に、本土寺がある場所にあったという。1269年(文永6年)に、日蓮上人に帰依した蔭山土佐守が狩野の松原に法華堂をたて、1277年(建治3年)に当地の領主であった、やはり日蓮宗の大檀越の曽谷教信とはかって、この地に法華堂を移し、日蓮上人の高弟、日朗上人を招いたのが、本土寺のはじまりという。<本土寺の仁王門> そして、日蓮上人より長谷山本土寺の名前を授かり、下総国守護千葉氏の庇護もあって、かつては日蓮宗の大山として、末寺百数十を数えたが、不授不施の法難に度々会い、また明治維新には廃仏毀釈のために衰微した。この本土寺は平賀家の三兄弟、日朗上人、日像上人、日輪上人のご出生の聖跡と伝えられ、とくに日朗上人は日蓮上人と法難の伝道をともにされたことで有名である。また、長谷山本土寺、長栄山本門寺(池上本門寺)、長興山妙本寺(鎌倉比企谷)と、同じ「長」という字を山号にもち、「本」という字を寺号にもつ、「朗門の三長三本の本山」のひとつに本土寺は数えられている。一般には「あじさい寺」として知られ、ミニ鎌倉の感もあり、けやき並木の続く長い参道と美しい境内は、人々の安らぎの場にもなっている。中世の歴史の研究者にとっても、本土寺にのこる過去帳は、さまざまな人名が大名から一般庶民、なかには被差別民であった猿楽能役者まで詳細に記載されていることから、下総あたりの中世の歴史をひもとく第一級の史料になっている。さて、小生柏に旧陸海軍が共同で開発したロケット戦闘機「秋水」の実験隊員だった方々の話を聞きに行く途中、久しぶりに本土寺へ寄った。境内は、まだ紅葉が本格的でないためか、あまり人がおらず、逆にゆっくり散策できた。長い参道を抜けると、目に入ってくるのが赤い仁王門である。「長谷山」の扁額が掲げてある。ここももみじに映えて、赤い門が美しい。本堂に上がる前に、見落としがちであるが、「翁の碑」がある。この「翁」とは松尾芭蕉のこと。この句碑は、江戸時代の1804年(文化元年)に行われた芭蕉忌を期して建立されたものである。ラグビーボールを大きくしたような変わった形をしており、「翁」と刻まれている。碑面には「御命講や油のような酒五升」という句や、芭蕉忌にちなんだ「芭蕉忌に先づつつがなし菊の花」という句が刻まれているそうだが、字がうすくなって判読できない。「東都今日庵門人小金原、藤風庵可長、松朧庵探翠、方閑斎一堂、避賢亭幾来、当山三十九世仙松斎一鄒、文化元子十月建之」というのは読めた。実は寺も含めて、江戸時代には俳諧の趣味が、経済力をもった町人などを中心にはやり、この寺でも句会が催されている。小林一茶も出てきているそうだ。この本土寺のほかに、北小金の水戸街道にちかい妙典寺にも句碑がある。妙典寺は、やはり日蓮宗であるが、中山法華経寺の末寺である。<「翁」の碑> そして、本堂に参り、順路にしたがっていくと、秋山夫人の墓がある。この秋山夫人は於都摩といい、甲斐の武田家家臣の秋山家の出身。徳川家康の側室にして、武田信吉の母である。武田信吉は、家康の五男で、徳川家から武田の名跡を継ぐために武田を名乗り、小金三万石の領主となった。武田信吉は病弱で、21歳で病没してしまう。結局、武田家を存続させようとした徳川家康の思ったとおりにはならず、再興武田家も信吉の代で絶えてしまった。息子が小金三万石の領主になったため、その生母秋山夫人の墓が、甲斐とは離れた小金の本土寺にあるのである。秋山夫人の墓を過ぎて、少し下り坂になり、菖蒲池に出る。その周りを半周すれば、日像菩薩をまつる像師堂のある場所となる。像師堂の近くに、稲荷と、1804年(文化元年)に芭蕉の句碑を建てた可長とその師匠の元夢の句碑があり、表に、今日庵元夢の「世は夢のみな通ひ路か梅の花」裏に、藤風庵可長の「秤目にかけるや年の梅椿」 とある。<秋山夫人の墓> 本土寺は6月頃はあじさい、春には菖蒲も美しい。広い菖蒲池は、春から夏にかけてが良いだろうが、清々しい。そして、秋は紅葉である。今回、その菖蒲池の周辺と、瑞鳳門の辺にわずかに、紅葉がみられた。11月下旬くらいは、もっと鮮やかになるであろう。また、来るのが楽しみである。<瑞鳳門> 前に松戸市は小金の鹿島神社に彼岸花が咲いていたことを、「古城の丘にたちて」外伝のほうに書いた。それは9月26日であったのだが、そのころ既に萎れている花も多かったようだ。 東京での短期の仕事を終えて、10月から愛知に帰ってくると、まだ彼岸花がかなり咲いている。萎れてしまったのもあるが、東京近辺より愛知のほうが時期が遅いのだろうか。 岩滑の矢勝川の土手には、たくさんの彼岸花が植えられていて、前の日曜日に行くと川沿いを散歩したり写真を撮っている人が大勢いた。 岩滑でこれだけ彼岸花が矢勝川の土手に咲いているのは、新美南吉が歩いた岩滑の矢勝川の土手に彼岸花を植えて彩ろうと、市民の手で植えられたという。1990年、新美南吉を愛する地元の人たちから、「南吉がよく散策した矢勝川の堤をキャンバスに、彼岸花で真っ赤な風景を描こう」という発案がだされ、その運動が半田市と新美南吉顕彰会を巻き込んで広がった結果である。 彼岸花は、秋の彼岸のころに咲くから彼岸花。だいたい、川の土手とか、田んぼのあぜ、お寺の横の路地や墓地などに咲いていて、不思議に心象風景に残る。別名を曼珠沙華というが、これは梵語で「天上の花」を意味するそうだ。 しかし、黄色い彼岸花もある。これは、鍾馗水仙という。キツネノカミソリというのも、この仲間か。半田の石川橋の近くの土手には、黄色い花と赤い花が混じって咲いていた。 ところで、彼岸花には毒性がある。それで、田の畦や墓地などに植えられて、小動物などが荒らさないようにしたため、今もそういう場所に生えているわけだ。 なお、小生、田舎で彼岸花は寺に隣接する墓地や土手などに咲いているのを見知っていたが、言ってみれば雑草であり、生えている場所柄、ソウシキバナ、ユーレイバナというような名前で呼ばれていたように記憶している。ハカバナとも言ったかな。とにかく大人では、縁起が悪いと忌み嫌っているような人がいた。昔は毒性を利用して蝿取りに使ったのか、蝿取り花(この呼び方は群馬だけらしい)という呼び方もあるようだ。だから、子供のころは彼岸花があまり好きではなかった。 しかし、20年くらい前に、鎌倉のやぐらの傍に彼岸花が咲いている様子を見て、なんとなく心惹かれるようになった。それは、のどかでもあり、世の無常を語っているようでもある。 |
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